ひろぽん鍼灸三年生@偏差値51.8のブログ

47歳(8月28日が誕生日です)が色々苦労しつつ鍼灸師の勉強をする日常。主に苦しんでます。

①生きてるだけで奇跡、もしくは呪い

 あんまり鍼灸の話をしないでぐちぐちと過去の話ばかりしているのだが、ここまできた己の来し方を振り返ってみるとよくもまあ現在ここでこうしていられるものだと我ながら感心というか呆れるものを感じる。

 現在、私が治療もしくは抱えている病気の類は下記の通り

 ・うつ病

 ・発達障害アスペルガー障害

 ・糖尿病

 ・アルコール依存症

 ・むずむず脚症候群

 ・脊椎すべり症

 ・入院ものの自殺未遂三回(服薬・首吊り・飛び降り)

以外と少なく感じるが、とりあえず脳から身体まで病の巣である。肝心の脳が病んでいるので治療にも前向きな時とそうでない時の差が発情期とそうでない時の猫ぐらい違い中々状態は良くならない。

 真面目に書いていくと面白くないどころか死にたくなるので敢えて適当に書こうと思うのだがそこらへんはご容赦願いたい。私がいくら変人とはいえ好きで病気にかかる程には達していない。山中鹿之助には頭が上がらない状態である。

 

 発達障害アスペルガー障害であるが、診断がついたのはつい数年前である。アルコール依存症の治療で入院していた時に、多動というじっとしていられなくて絶えず歩き回っていないと苦しくてならない状態になった。この状態、退院してもおさまらなくて苦しさのあまり結構な高さの橋から川へ投身自殺を図るまでに至った。幸いといっていいのか知らんが右足首の粉砕骨折だけで済み、退院したばかりの精神病院に送り返される出たり入ったり便秘症の方のナニみたいなせわしない形で医療関係者の方々にご迷惑をおかけすることになってしまった。

 で、そのじっとしていられない状態に対する薬が処方されたのだが、それが発達障害の患者に処方される薬で、見事に効いてしまった。結果論ではあるが、発達障害を抱えているという事が分かったのだ。

 発達障害アスペルガー障害であるが、飛び降り自殺未遂で担ぎ込まれた精神病院の閉鎖病棟での検査で後日診断が確定したのであるが、別にそんなものは私はいらなかったんである。

 

 昔から、「変わった奴」という扱いから抜け出せなかった私はとっくの昔に自分が何か他の人と比べて悪い意味で違うのだと身に染みて味わされてきていたのだ。具体的に何があったかは陰惨な話も含むので書かない。メンヘラさんのおどろおどろしいブログを書くつもりは毛頭ないからである。

 他人と違うというのは、SNSなどで紹介文を寄せてもらった時に、私について

 

「独特の感じをもつ優しい人です」

「ちょっと人とは違った感性の持ち主で気が合いました」

 

などと、かならず

 

「独特」「人とは違った」

 

という形容詞がついてくるのだ。好意的に書いてくれているのはとても良くわかる、でも独特でも人と違った所も持ちたくなんかはなかった。そういうコメントを読み返す度に自分は普通じゃないんだ、当たり前じゃないんだと思い知らされて悲しい気持ちを抱えていた。

 そんなものなぜ読み返すのかといえば、それでも私にとって好意的な評価というのは非常に大切だったからである。正直、ポジティブな評価に飢えていた。

 

 独特、人と違うという事は良く受け止められる場所があるというのが物凄く幸せな事である。普通世の中は、自分たちと違うもの、そして違っていて劣っている者に対しては排除しようと働きかけてくる。

 大学を卒業して最初に就職した某メーカー子会社のIT企業で私は人事部の採用担当を拝命していた。本当はSE候補として採用されたのだが、研修でITについて学ぶにつれてこれは自分には無理だと見切りをつけて配属希望を聞かれた時に間接部門、できれば人事に行きたいとアピールしたのである。

 結果的には正しかったといえよう。毎年400人近くを採用する規模の会社だったので採用~新人研修~配属だけで手いっぱい。人事課も20から30人近くの大所帯で毎日五時まではその日の仕事をこなし、定時になってから自分の仕事にようやく手がつけられるという忙しい環境だった。

 

 が、人に恵まれた。当時はまだ庶務担当という形で一般職の女子社員が採用されていたのだが事務職なので当然間接部門に集まる事になる。人事部もその例に漏れず、半分ぐらいが女子社員で成立しており、非常にかわいがってもらえたのである。

 年齢も近く能天気だった当時の私は、ExcelもWord、更にはaccessすらろくに扱えなかったのだが、隣の席の女子社員に「ここはこうするの」と理屈ではなく実務を通じて教えてもらう事ができた。他にも示し合わせて早めに上がって皆で飲みに行ったり野球観戦に興じたりと本当に良くしてもらえた。あの時期が人生で最良だったのではないかと思い出す事もある。

 

 ただ、多忙な中雑務だけやっていて済む訳もなく、私にも専任の仕事が振られる日がやってきた。当然経験値ゼロの自分にはどう動けばいいのかの見通しなど立ちはしない。会社に行くのが恐ろしく気の重いものになってきた。

 そして、上司に呼びつけられ進捗を確認される事を恐れるあまり、上司の声がすると腹を下してトイレに駆け込む過敏性腸症候群を発症してしまった。この時期、心療内科に初めて通うのだが、うつ症状も出ておらず緊張に耐えられるよう安定剤を処方してもらっていた。

 そんな仕事も何とか周囲の女子社員の手助けもあって終わったのだが、次に来た仕事はこれも経験などまったくなくおまけに自分ひとりで担当せねばならないものだった。会社としても初の試みという事もあり、似たような業務を経験していれば身の処し方も見当がついたかもしれないがどうなれば終わりなのか、自分が今している事はなんなのか、どうすればいいのか、

 

 全部わからなかった。手を動かして作業はこなすが進捗状況は進まないしどうなれば進んでいる事になるのかもわからない。同輩との関係は良かったが上司と組んで仕事をするという経験が殆どなかった私は上司に助けを求めるという当たり前の事も思いつかずひたすら夜中まで残り山のような作業に追われていた。

 上司の介入や指導によってようやくその仕事は形になったのだが、その形になったものを見ても何も頭には浮かばなかった。普通なら喜びなどの反応を見せるものなのに無反応だったので後から思えばその頃から私のメンタルは悪化していたのだろうと後に上司から耳にした。

 

 その通りで、何かに対して感情を持つ余裕というものを無くしてしまっていた私は魂の抜けたような状態になっていた。ある仕事でミスをしたにもかかわらず恐縮も何も反応する事なくぼうっと机に向かっていた所を上司に不審がられ、いろいろあって上司に産業医まで連れていかれてうつ病との診断が下された。

 結果、一か月の病気休職となりひたすら毎日横になっていた。その中で思ったのは、

 

「自分を守らなきゃ」

 

 という一点で、病休から復職するにあたり上司と交渉して激務である元の職場からの異動を勝ち取った。異動させなきゃ辞めてやるというハラキリ交渉も良い所であるが。

 

 病気休職を経て私の考えは変わった。今の職場は良い所だが、ずっといて良い場所ではない。自分のやりたい事、したい事を仕事にする事を考えた方が良いな。やっぱり。

元々発達障害で図書室が居場所の本の虫であった私は、出版業界への転職活動を始めた。中々良い結果は出なかったが、ある応募に対して先方から面接したいとの申し出がきた。なんでも、志望動機を書いて送ったのだがそれがずば抜けて高評価だったのが面接に呼ばれた理由だそうである。

 業種はというと、翻訳出版に関して出版社に海外の書籍を紹介して出版社がOKを出したら出版社の代わりに日本での出版権の取得など著作権業務を代行するというものであり、要は海外の出版物を専門に扱う専門商社のようなものである。

 海外文学マニアの自分にとっては天職かもしれない。英語は一年ロンドンに留学しただけで拙いがやる気はやる気茶屋とタメをはる位ある。昼間、仕事をしている振りをしながら面接の想定問答を作成するなど準備を整えた。

 

 面接はというと、青山にある小粋なレストランで社長と副社長を相手に食事をしながら話をするという

 

「ザ・外資系 エグゼクティブ」

 

を地でいく代物であった。会社は近くにあるのだが、狭いので面接に向いてないとの事だった。実際、ちっちゃい雑居ビルの一階でトイレは男女共用という零細企業そのものであったのだがそれは後でわかる事である。

 社長(イギリス人)に副社長(日本人)との食事で私は頑張った。普段積極的に話を振っていくタイプではないのだが、振られた話題には食らいつき、好ましい態度を保つよう心掛けた。

 

 仕事の話など出なかったのだが、この会社から内定をいただく事になった。会社に希望する会社に採用されたので退職すると報告し、残務をこなして颯爽と会社を去っていった私は非常にかっこよかったと後に当時の同期から聞いた。

 

 そしてそれが最後の人生の輝きとなる事も知らなかった。

 

 新しい会社で希望に燃えて仕事を始めたが、私の英語力はTOEIC800点前後。十人いるかいないかの同僚は殆どが海外の大学か大学院を出ているレベルで、一人私と同じぐらいのTOEICスコアの持ち主がいたがこの人はコミュニケーションスキルがずば抜けていて話すのに臆するのを見た事が無かった。

 私はというと、病気休職したうつの影響が抜けきっていなかったのか寡黙であり、社長などに何か聞かれても積極的にしゃべり倒すという事もなく無言で済ませる事もあった。そして、肝心の業務である

「海外の書籍の売り込み」

であるが、当然売り込む書籍は読めてないといけない。

 一回で十数冊持ち込むというのにその全てに目を通して理解する英語力は私にはなかった。

 

 そんなこんなでちぐはぐな日々が過ぎて試用期間最終日、仕事をしていると副社長から採用面接を行ったレストランに来て欲しいと電話が入った。

 

「まさか馘首とか言われるんじゃねーだろうなー」

 

と思いつつ赴いた所、試用期間を超えて採用はしないと告げられた。理由はというと色々あったちぐはぐな食い違いと、私の語学力が業務に耐えうるものではないという事であった。

 言われた事は理解しているようだけど、自分から話すという事があまりにも少なくて同じぐらいのTOEICスコアの先輩のようにどんどんしゃべってくれるタイプなら良かったのだが・・・と副社長からは言われた。

 いつも朝いちばんに来て最後に帰る、転職活動はできるかぎり応援する、紹介状が必要なら何枚でも書くという社長の言葉も、日本で紹介状なんて貰っても無意味なだけである。

 

 かくて夢の仕事は二週間で終わってしまった。そして出版業界自体さほど規模の大きな業界ではなく、同じような翻訳出版に関わっている会社は3社しかない。同業他社を二週間で追い出された人間に潜り込む余地なぞない。

 自分が「この業界なら息がしやすいだろう」と思って奇跡的に潜り込んだ世界からは門が決定的に閉じられ、自分のやりたい事も夢も希望も全部失ってしまった抜け殻が残っているだけだった。

 

 数か月、毎日ワインを二本とピザを一切れ胃に入れ、一日酔いつぶれて何も考えずに過ごしているうちに、状況を危ぶんだ実家の手配により私はいつの間にか実家のある〇山県へUターンしていた。体重は数か月の不摂生で30kgほど増え、送別会を大学同期が開いてくれたのだが変わり果てた私の様相にかける言葉が無かったという。この頃から、やりきれない時間をアルコールでやり過ごす悪癖というのは無視できないものになっていく。

 

 もう人生に望むものはない。これからの人生はひっそりと生きよう。寛大な事に試用期間で馘にしたにもかかわらず退職金まで会社は出してくれていた。この金で公務員予備校に入学しよう、そして公務員として波風のもうない静かな生活をずっと送りたい。

人生に望むものがもうなくなってしまい、なるたけ波風もなく生活できればいいと公務員に「また」夢を見た。夢を見ていたと気づくのはしばらく後の事になる。

 

 入学して半年も経たないうちに公務員採用試験のシーズンがやってきた。準備不足は承知していたので場慣れの為に警察事務から県庁市役所、果ては大阪府の某市役所まで受けられる試験は受けまくった。

 当然受かる訳もないのだが、ある日茫洋として何もせずにいた時一通の郵便が届いた。国家人事院なる所から

 

「国家公務員Ⅱ種試験、一次試験合格したんで二次試験(面接)やります」

 

という青天の霹靂とでもいうべき通知であった。ちなみに他の試験は全滅であったので、多分一次試験の論文が点数を稼いでくれたのだと思う。

 

 広島の人事院まで面接の為にやってきた。よほどおかしな受験生でなければ無難に通るものとは聞いていたものの緊張し、当時通っていた心療内科で処方されていたデパス(安定剤)をボリボリ齧ってみたりした。

二次面接も何の間違いかしらないが合格した。国家公務員(ノンキャリだが)合格である!世の中捨てる神あれば拾う神あり、幸運の女神様には前髪がついているというが、しっかり掴んだぞ。

 

 掴んだのは悪魔の尻尾であった。国家公務員というのは、採用試験に合格して終わりというものではない。どの官公庁で働くかは自分で希望する官公庁の面接を受けて自力で合格を勝ち取らないと決まらないシステムになっているんである。

 いわゆる「官庁訪問」というのがこの官公庁が行う面接の事である。しかも、この官庁訪問だが、自分で電話すりゃアポが取れるというものでもない。採用試験の順位を見て官公庁の方が

 

「こいつ面接呼んでみようか」

 

と決めるので成績が悪かった人間にはお呼びの声がかからないなんてのが当たり前にある。そして私であるが、準備不足の所を運よく合格しただけあって中の下程度の順位であった。

 それでも、地元〇山で国家公務員として静かに暮らしたいというかそけき望みを原動力に官公庁が行う「説明会」に参加して回った。「説明会」というのは採用と直接関係するかは不明だが、出席しておくと後々官庁訪問の声がかかる可能性が上がると聞いていた。

 

 急に話は変わるが、この時期というのは2002年前後である。就職氷河期真っただ中であり、どこの会社も採用者数をえげつなく減らしていた時期である。官公庁もそれに倣ったのか、説明会で配られた「採用予定人数一覧」を見るとどの官公庁も採用予定人数は

 

「1名」「1名」「1名」

 

ラクダが針の穴をくぐるのと同じくらいの厳しさであった。

 

 それでも希望を捨ててはおしまいだ。直接採用に繋がるかはわからないが説明会があると聞けば片道数時間列車に揺られても駆けつけ面談し、かかってこない官公庁からの採用面接のお誘いを待ち続けた。

 成績が低いだけあってか、忌避されがちな官公庁からのお誘いをいくつか受けた。厚生省麻薬取引取り締まり係(通称麻取りというやつである)とか公安調査庁とか。どれも私の性分ではつとまらないのが明らかなのでお断りした。

 

 面接に呼ばれても採用に繋がらない。どれだけ足を棒にしてもはなにもかけてもらえない。

 

 そんな事が続くうち、私はまたアルコールに手を出すようになった。思わしくなかった面接の帰りの列車の中で熱燗を飲み、安定剤を齧って人事不明になるまで酩酊する。そんな事を繰り返しているうち、広島で電車に乗った筈が気づくと自宅の自室にいた。目の前には母がいる。

 

「何も覚えてないのね」

 

相当何かをやらかしたらしい。親にここまで絶望させるまで至ったならもう、人間としては御終いだ。死のう。

 

するりと結論が出た。当時、年末年始を迎えており精神科の処方薬も休暇の分を考慮して大量に処方されていた。その中には、今は致死性があるという事で処方されなくなった強力な睡眠薬が致死量には充分な量処方されていた。

 冷静に死のうと決めたからか意識も清明で、薬を発作的に口に詰め込む事もせず淡々と嚥下していった。そうだ、死ぬんだから皆に挨拶しておかなきゃいけないな。ふとそう思い、パソコンに向かった。

 今までの友人たちにお礼を告げ、さようならと送る。自分の中にはみんなへの感謝の念しかなく、それを伝えずに死んでしまう事はとても不義理な事のように思えたのだ。

メールを見た友人から

 

「絶対するな、すぐやめろ」

 

という電話が来る。そう言われても死ぬと決めたのだし今更やめるつもりもない。困ったなあと思いながら応対し、電話を切る。

 薬を飲み切った後、又友人から電話が来た。なぜかその友人の説得には納得してしまい、死ぬのはやめる事にした。色々あって救急外来に家族に送ってもらって行く。

 

「すいません、自殺しようと睡眠薬を大量服薬したんですが」

 

冷静に告げる。そのあとは睡眠薬の効果なのか意識が朦朧としていて、胃洗浄を受けていた細切れの記憶しか残っていない。

 胃洗浄を受けた感想はというと、

 

「ガソリンを給油する時にタンクにノズルを突っ込むけど、タンクが自分の口でノズルが胃洗浄の道具みたいな感じ」

 

であった。

 

数日間昏睡状態の後、回復して退院した。多くの友人たちに気を揉ませてしまったようで連絡が途絶える事がない。

 

 今度は人に教えずにやろう

 

反省しないまま家に戻ってきた。

それからしばらくして、ある地方大学から採用の連絡を受けた私は、山に囲まれた小さな町で大学にひっそりと勤務するというありえない夢を見ていた。

 

 大学では、昨年指導した新人を退職に追い込んだという曰くつきのクラッシャー上司の元で働く事となり、4月1日に入庁した自分がゴールデンウィークには旅行に来た家族に

 

「死にたい」

 

と漏らすほど順調に精神を病んでいた。一つには、自分の発達障害アスペルガー障害が恐ろしく悪い方向に働いてしまったという事がある。発達障害にはいろいろなタイプがあるが、私は動作性IQが低いという特徴がある。つまり、とろくさいのだ。事務作業を行っていて

 

「ミシン目の入った伝票をちぎって重ねていく」

 

などの動作が遅くもたつくため、手が遅い、改善する気がないと責め立てられる。

 

 アスペルガー障害は人との適切な距離感がよくわからない。なので自分から積極的に話していって墓穴を掘らないようにしていたのだが、私は職場に受け入れてもらいたかった。馴染みたかったのである。結果、自分の事をべらべらと必要以上に垂れ流してしまい心象を悪くしてしまった。

 

 もうどうしようもないくらい詰んだ状態の自分だったが、精神科を複数掛け持ちして手に入れていたある薬に救われていた。

 リタリン、という薬である。薬としては向精神薬にあたり、うつの患者の気持ちを高揚させ、中枢神経を興奮させる作用がある。覚せい剤などの同類である。しかもこの薬には

 

「砕いて、ストローなどで鼻から吸引し鼻粘膜から吸収させる事で効果が早く強く表れる」

 

スニッフ、というイリーガルな服用の仕方があった。気力もエネルギーも尽きた私にはリタリンは神様がくれた翼であり、スニッフは聖なる儀式であった。胸ポケットに分包されたリタリンとラジオペンチ、ボールペンを忍ばせておき、何かあった時はトイレに駆け込んでラジオペンチでリタリンを砕いて芯を抜いたボールペンで鼻から吸い込む。

 

 3から4件の精神科を掛け持ちしてリタリンを処方してもらっていた気がする。辛いこと、疲れることがあったらまずスニッフ。最後の方は鼻粘膜を刺激しすぎて鼻から出血するようになっていたが、手放す事はできなかった。

 神経を興奮させているので、帰宅したら興奮を抑える為に酒を飲む。ビールの6パックが一日で消え、その日が終わる。

 

 そんな破綻した生活で仕事がこなせる筈もなく、精神錯乱を起こした私は実家で二年近く病気休職にあたる事になった。しかし、酒も薬からも手を切るつもりのなかった私は破滅的な二年間を送る事になる。

 リタリン躁状態になってはカードで買い物をして支払不能で実家が電話ぜめになる状況をつくり、夜は寝られないので毎晩ビールの6本パックを買いに外に出る。同居していた両親の心労はいかばかりであったか、悔いる事しかできない。

 

 二年後、復職するが酒で体重がさらに数十キロ増え、リタリンをスニッフする悪習も手放せない無能力者が復職しただけだった。

 その後、リタリンは私同様に濫用する者の多さが問題になり難治性うつ病への処方は禁止となった。現在ではナルコレプシー患者にのみ投与が認められている。

 

・・・気づいたら三時間キーボードを叩いていた。まだ半分を過ぎた所だけど、集中力がそろそろ尽きてきたのと、字数が8000字を超えたのでいったん区切りをつけたいと思う。ここまでお付き合いくださった方に感謝を。