ひろぽん鍼灸浪人生@偏差値37のブログ

47歳(8月28日が誕生日です)が色々苦労しつつ鍼灸師の勉強をする日常。主に苦しんでます。

名前のない苦痛

 今日、意を決して脳神経外科に行ってきた。

 

 私は20代の頃から手や指が震える症状があり、特に原因の無い「本態性振戦」だと診断されていたのだが年を重ねるうちに震えが酷くなってきていたのだ。震えるからといって、

 

「緊張してるのかな」

「こいつビビっとるわ」

 

と思われるぐらいしか不都合はなかったので気にしていなかったのだが、鍼灸師の勉強を始めてこれはひょっとしてヤバいのではと気にするようになった。

 緊張するとブルブル人並み以上に震えるのはしょうがないが、鍼を持った時、灸をすえる時に手が震えていては仕事にならないどころか患者さんに不安しか与えない。かかりつけの主治医に相談してβブロッカーなどの震え止めの薬を処方してもらっていたのだが震えは次第に酷くなった。

 

 コップを持つとその手が震えて中身が零れかけたり、震えが酷くて字がまともにかけなかったりする時もあったが、一番困ったのはスマホの入力が指の震えでできない時がある事だった。

 タブレットスマホよりも画面サイズが大きく入力しやすいので助かっていたが、最近はタブレットさえも震えが大きすぎて的確にタッチできない時がでてきていた。

 

 もしかして、パーキンソン病の兆候ではなどと考えたりしていたが、それ以外の原因であっても専門医の治療を一度受けてみようと思い近くの脳神経外科を探して受診に至ったのだ。

 

 初診でお目にかかった医師は非常に適格に話を聞いて引き出してくれる人で、自分である程度まとめておいた今までの経緯をほぼ全部聞き出して、意外ではあるが信頼してしまいそうな口調でこう告げた。

 

「今までのお話から、一つつながりのある症状があります」

甲状腺亢進症、バセドウ病です」

 

私の姉と叔父がバセドウ病である事を話すと、医師は意を得たりとさらに説明を深めていった。私の手の震えは、甲状腺ホルモンが脳神経に引き起こしている障害の可能性が高いという事。

 その後調べてみた所、確かにバセドウ病の症状には手の震えというものがある。

 

 又、私は原因不明の発熱にこの数年悩まされており、昨年は国試の受験勉強もロクにできず落としてしまうほど体調を崩していたのだが、今まで検査した病院では自律神経失調症としか診断がおりず手の打ちようがなかった。

 この発熱についても、甲状腺の異常によって引き起こされる可能性があると告げられた。これも調べてみると、確かにバセドウ病の症状に微熱が続くというものがあった。一部保険が効かず自費になるが普通はやらない細かい血液検査を受けてみるかと聞かれた。標準的な検査ではひろえない所も検査するため、他所の病院では診断がおりなかったがこの検査でバセドウ病だと確定できた患者もいるという。

 

 今日は血液検査の用意ができないので今週金曜日に検査の予約を入れ、今日できるエコー検査だけを受けた。受けてすぐ画像を見せてもらいながら説明を聞いた所、甲状腺に炎症の痕があり何かしらの異常があった事だけは確定した。

 今も異常が続いているのかどうかは血液検査の結果が出ない事にはわからない。

 

 が、異常があると分かるのが早ければ早いほど、治療にうつれる。

 

 私はそれからしばらくふわふわとした高揚感を感じていた。

 原因が分かった!治療できる!

 もちろん原因かどうかは分かっていないし、ゆえに治療に移れるかどうかも今の時点では不明瞭に過ぎるのだが、私には急に目の前に光がさしてきた様に感じられた。

 

 原因もわからない、手のうちようもないまま苦しむだけの

 

「名前のない苦痛」が

 

 原因がわかり、効用の有無はともかく手がうてる

 

「名前のある苦痛」に変わる。

 

 それだけで、すがる事のできる希望が形になって見える。希望も見えないまま暗く先のない世界に座り込んでいる苦しみから解放された気持ちになった。

 人間は希望を食べて生きる存在だ。

 

 もしかしたら、今の苦しみから将来解放されるかもしれない。それはとても眩しい将来の姿だ。それだけで頑張ろうという裏付けのない勇気が湧いてくる。

 

 多分、診断が癌であっても私はそれまでよりマシだと思うのではないかという考えがふと頭をよぎる。

 

 

 

 

 

ロンドン放浪記②~洗礼パンチ

 いままでのお話(①)

 いろいろ間違えて夜の11時にホストファミリー宅を探して泣きながら辿り着いたよ

 

 ロンドン放浪記②~洗礼パンチ

 

 ホストファミリー宅のある駅にたどり着いたのは夜の10時過ぎだった為、どんな店があるかなどといった事はさっぱり判らなかった。

 

「どこそこ沿いにまっすぐ歩いてあの店を過ぎて何軒目がウチだから」

 

と電話でホストファミリーに家の場所を教えて貰ってもそのランドマークが分からない。なんとなくでたどり着けたあたり本当に悪運だけは強いのが私の特徴らしい。

 翌日近所の散策というか探索に出た。

 ホストファミリー宅のある町は上品な住宅街という感じで庭つき一戸建てのそこそこお高そうな家が整然と並んでおり、駅からメインストリートが一本、シンプルに通っているだけである。深夜に土地勘もなく降り立った私がなんとかホストファミリー宅を見つけ出せたのはこのシンプルさに助けられた所が大きい。

 

 日の光の下で歩いてみると駅からまっすぐ5分も歩けば着く程度である。これがもし込み入った街中だったりしたら道に迷うどころか下手をすると犯罪に巻き込まれていた恐れすらある。

 

 実際、パリを訪れていた折に夜のエッフェル塔観光としゃれ込み、夜12時の凱旋門エッフェル塔といったレアな経験をしたのは良いが終電を間違えてしまい全く知らないパリのどこやらに放り出された事があった。パリに着いたその日の話である。

 地下鉄で路線選びに迷っていた所を親切な学生さんが助けてくれたのだが、教えてもらった内容が当時の拙い語学力では理解できなかったのが原因である。よくわからない電車にのり適当な駅で降りたのだから迷わない方がおかしい。

 頼りになるのはホテルの住所が書かれたカード1枚である。0時を回り人通りもなくなったパリの中、営業している雑貨屋や屋台、食堂を見つけてはホテルの住所を見せて道を尋ねる事を繰り返す。自分がどこにいてホテルがどこにあるのか、どれくらい距離があるのかもわからない。

 

 地図や路線図などを用意していなかった自分の迂闊さが原因である。それまでも新しく着いた場所で迷子になりながら目的地にたどり着くという事を何度も経験してなんとかなっていたのでそれが当たり前になり、慎重さというものが欠けていた結果なのであるが、世の中なんとかなる時は本当になんとかなってしまうのである。なんとかならなかったら死ぬのだが。

 

 夜見る街並みは昼とはまったく違って見え、教えてもらった道も本当にそれでいいのか不安になるが途中で呼び止めようにも歩いているのは酔っ払い程度である。

 

 パリの都心部なので灯りだけは豊富だったのに助けられ、奇跡的にホテルに戻る事が、というかホテルを見つけ出す事ができた。後々調べてみると3時間から4時間ぐらいをかけてパリの中心部2分の1ぐらいを歩いて横断したようだった。

 

 愚者は経験に学ぶというが、そんな経験をしても全く学習しなかった結果、ロンドンで夜11時にスーツケースを引きずって住宅街を半泣きでさまよう事になる訳である。

 

 さまようと言っても先に言ったように、徒歩5分の話なので迷子レベルは

 

「はじめてのおつかい」

 

 と大して変わらない。その徒歩5分の範囲にスーパーマーケット、ドラッグストア、日本でいうとコンビニにあたる酒から雑誌まで扱う雑貨屋、リサイクルショップなどが並んでいてそれでこの町は終わりだった。本当にいな・・いや簡素な住宅街である。

 

 とりあえず生活必需品ぐらいは困りそうにないななどと思って店の品ぞろえなどを冷やかして終えたその日の夜、私は急に熱を出した。

 

 留学費用を稼ぐ為にバイトの掛け持ちをしながら、大学の単位も卒業単位を揃えるため詰め込み気味で学校にも通う生活を1年半ほど送った後である。長期間のフライトや時差ぼけなどがきっかけでそれまでの疲れが一気に出たとしてもおかしくはない。そう思うほどの高く急な発熱だった。

 

 高い上、熱は何日も続いて下がらなかった。

 

 あまりに熱が高いので、自室にある洗面台に水を張り、そこに足を漬けて冷やした事を覚えている。ホストファミリーに頼るという手も今思うとあったのだが、私がステイする事になったお宅は寝食を共にするというタイプではなくビジネスとして下宿人に部屋を提供するスタイルで顔をあわせなくても生活は完結するようになっていた。そんな理由もあって誰かに頼るという事もなくひたすら自室で高熱にうなされ続けた私だった。

 

 早々に覚えた英語がこれ。

 

「ペインキラー(解熱剤・鎮痛剤)」

 

 熱に倒れて何日目かは忘れたが、ふらふらしながらドラッグストアまで買いに行った。薬を飲んで即解決というわけにもいかず、結局5日間ほど寝込んでいた。

 

 ロンドン到着直後、謎の高熱にうなされるハメになったのだが、それは私だけに起きた話ではないようだった。語学学校で知り合った友人の中にも

 

「ロンドンに到着した直後に高熱を出した」

 

者が何人かいたのである。理由はロンドンの空気が悪く、そのせいではないかという風に私たちの間では結論づけられていた。中には血痰が出るまで咳が止まらなかった者や旅行保険サービス経由で医師の往診を受けお尻にぶっとい注射を打たれた者もいた。お尻に注射をされたというのは20代半ばの綺麗なお姉さんだったので今考えるとそういう話も恥ずかしかったろうになどと思いはする。

 

 まあ、おっさんになった今の私には話してくれないだろうなあ。

 そんな訳で到着早々、きっつい洗礼を受けたのであった。

ロンドン放浪記①

 タイトルは私の好きな作家、ジョージ・オーウェル(「1984年」の著者)の著作である「パリ・ロンドン放浪記」からいただいています。

 

 10代の頃、臨床心理学やカウンセリングに興味のあった私は当時臨床心理学が学べて臨床心理士(当時は公認心理士という資格はありませんでした)になる為に必須の大学院での勉強もできる大阪大学人間科学部に入学しました。

 今では心理学部や人間科学部を擁する大学はたくさんありますが、私が受験生だった20年前には人間科学部という学部を擁していて、臨床心理学などの勉強ができるのは大阪大学だけでした。

 早稲田大学人間科学部という学部はありましたがこちらは運動学系の学科で、京都大学に総合人間科学部という学部ができましたがさすがに学力が足りずに諦めていました。

 

 さて、一浪して入学したのですが入学してしばらくたつと内情が分かってきます。日本で唯一の人間科学部を志望して入学してくる学生というのは個性的な方が多く

 

「変人科」

 

などと呼ばれていたりしました。実際、個性豊かな学友に恵まれました。で、肝心の臨床心理学などの勉強ですが

 

「志望する学生はカウンセラーになるよりカウンセリングを受けた方がいい人ばかり」

 

という話が当たり前のようにされていました。実際、私も他人のために尽くしたいという理由ではなく、生きづらい自分をなんとかしたいという動機でカウンセリングに関心があり、これを自分の職業としていくのは無理があるのではと思い臨床心理士への道は諦めました。

 

 学業で目指すものが無くなってしまった私でしたが、二年生の夏休みにヨーロッパを旅行した事で新しく目指すものができました。(このブログの「ユーロトレイラーズ」という記事に詳しく記してあります)

 海外に出る事でそれまで無かった新鮮な日々を経験し、今度は留学したくなったのです。学生生活の目的を見失っていた所に新しい目的を無理やり設けた感は否めませんが目標のある生活というのはやはりいいものです。

 

 しかし、留学ともなるとお金も時間もかかります。

 

 そこで私は二つハードルを自分に課しました。

 ・留学費用は自分で稼ぐ

 ・留学前に大学の卒業単位は全部揃えておく

 

 中々大変でした。週に13ぐらいの夜勤も含むアルバイトを掛け持ちし、睡眠時間を削って学校に通う毎日でした。それでも、頑張っている自分というのは気持ちのいいものですし、友人や彼女との付き合いは削らなかったので精神的に煮詰まる事もありませんでした。

 

 そして大学三回生を終える時には、100何十万円かの貯金と卒業論文以外の単位をコンプリートして留学する用意ができていました。

 留学の手配ですが、留学コーディネート業者の所に行ってパンフレットだけ集めてきたりして手数料を節約すべく自力で済ませましたが具体的にどうやったのかは覚えていません。

 当時のWindowsにはソフトFaxといってPCからFaxを送れる機能があったのでそれを使ってイギリスの語学学校とやりとりをしていたのかもしれません。ちなみにイギリスを留学先に選んだのは、イギリス出身のコメディ集団「モンティパイソン」の大ファンだったのとクイーンズイングリッシュなどのイギリス文化に魅力を感じていたからです。

 

 今思い出そうとしても全く思い出せないのですが、語学学校に申し込みをし、イギリスまでの航空チケットを手配しとすべて自分でやったハズなのです。忘却のかなたですが。

 

 さて、そこまで手配した後、一旦大阪の下宿を引き払って実家に戻りました。出発前に大阪に上り、当時の彼女の実家に泊めていただく事にしていたりと色々な方の手を借りての出発です。

 意気揚々と大阪に向かい、彼女の実家へと向かいました。お世話になるのでお土産もぬかりなく用意していたのですが、彼女の親御さんにお渡しする時

 

 袋から出すというマナーを知らず、ビニール袋に入れたままお渡しするというとんでもないムーブを取ってしまいました。更に風呂を立てていただいて一番風呂を勧めていただいたのですが遠慮のそぶりも見せず一番風呂を堪能する始末。

 翌日、関西国際空港に向かう電車の中で彼女の機嫌が恐ろしく悪かったのを覚えています。まあ当然です。

 

 が、その後届いた彼女からのエアメールによると、彼女の実家に泊めていただいた時彼女は風呂は一番最後にして一緒に入りたかったのに私がさっさと一番風呂に入ってぐっすり寝てしまったのが気に食わなかったとかなんとか。

 

 ちょっと大胆すぎませんか?

 

 さて、関西国際空港で搭乗したのはシンガポールエアラインでした。当時のシンガポールエアラインはサービスや乗務員の質が良く評価が高かったのですがCAの方は民族衣装が似合う上に親切で非常に良いものでした。

 チャンギエアポートでトランジットの為一泊です。お金と仲が悪く手持ちが常に怪しい私はダウンタウンのチャイナタウンの安宿に転がり込み、地元の定食屋らしき店で夕食を取りました。

 

 頼んだものは「田鶏(デンチー)のお粥」、要はカエルのお粥です。何でそんなものを頼んだのかわかりませんが、丸ごと入っていたカエルの骨格から肉を齧り取るのに勇気が必要でした。

 

 さて、ダウンタウンでの一夜があけてチャンギエアポートを出立です。フライト時間は10時間ほどかかり長かった記憶がありますが、実家の本棚から拝借してきた司馬遼太郎の「坂の上の雲」を延々と読み続けていたのであまり苦にはなりませんでした。

 

 飛行機には音楽や映画を楽しめるよう液晶パネルが埋め込まれていて物珍しさにいじってみましたがあまり面白そうなコンテンツはありませんでした。ただ、五木ひろしだったかな?「冬のリヴィエラ」という曲が気に入ったので何度も聞いたのを覚えています。(その後、カラオケのレパートリーになりました)

 

 さて、そんなこんなでロンドンにたどり着きました。

 

 が、例によって例のごとく詰めの甘い私。到着したのが夜の10時。そこからどうやってホストファミリーの家までたどり着けるのか?ホストファミリーは入学予定の語学学校から紹介してもらったのですが、住所と電話番号ぐらいしか知りません。

 

「最寄り駅までいけばタクシーぐらいあるだろうからそれに乗ればいいだろう」

 

最寄り駅は小さな無人駅で、当然駅前にタクシーなぞないのでした。

 

 ホストファミリーの家に電話をかけて、駅からどうやって行けばいいのか尋ねたのですが、語学力が低いから留学してきた阿呆にとって何がなんだかちんぷんかんぷん。駅の周りも店舗は全部閉まっていて暗い夜道が伸びているだけ。

 正直、どうやってホストファミリーの家まで辿り着いたのか分かりません。迎えに来てもらった訳でもなく住所のメモを片手に暗い道を歩いていた記憶だけが残っています。

 

 たどり着いたホストファミリー宅は豪勢な一軒家でした。夜の11時ごろにいきなり

 

「道を教えてくれ」

 

 と電話してくるような間抜けな日本人に対してホストファミリーは暖かいお茶でお迎えをしてくださり、しばらく歓談したのち部屋に案内されイギリス最初の一日は終わりました。

 

【このお話のポイント】

交通手段は出発時間だけでなく、到着時間もきちんと確認しましょう

ラストワンマイルの詰めを怠らないように

カエルは特においしいものでもない

 

降りてきたものしか形にできない(付録つき)

 ノートパソコンを新調したのはいいのだけれど、元々きちんと設定せずになんとなく作成したファイルの保存先になっていたGoogleDriveやOneDriveの移行が上手くいっていません。本来ならIDとパスワードさえあればマシンが変わろうと何の問題もないハズなんですが、IDとパスワードは何をいつどこに入れたのやらわからず折角のクラウド環境が無駄になっています。

 だって、GoogleDriveにデータを同期させるんじゃなくてUSBメモリに落としてわざわざ移動させてるありさまなんですよ。おまけにどういう訳かUSBメモリに保管できないファイルがあったりしてフォルダはあるものの空けてみると肝心のファイルが無くて嫌な汗をかいたりしました。

 この日記に引用したいなと思っていた一年時のレポートが見当たらなかった時は吐きそうになりました。だって同じものかけないし。

 

 そんなこんなで今回は文章を書く話です。

 

 あまり関係ないのですが、私は学歴と職歴の良いところだけをつまむと一見大層な印象を与えるみたいなのですが悪いところを見ると短期間で職を転々としており、以前職場ではなく経験した職業をカウントしてみた所十三種(三日で逃げた所もありますので)もの職業を経験している事が分かりました。別に派遣労働者なんてそんなもんだろうと思ってクラスメイトに話した所、理解できないという反応が返ってきました。

 

 自由な労働市場というのは(略

 

 その中の一つにフリーライターというお仕事があったのです。大学に残った同期の友人が非常勤講師を務めている福祉の専門学校で、学生に配る副教材として丁度具合の良い読書ガイドを書いていたのが主な職歴です。他にはやはり大学時代の友人に頼まれて行った事もないバリ島のガイドブックを

 

 参考資料:図書館で借りてきたガイドブックたち

 

ででっち上げたり、バイトの面接に行ったインド人経営の料理店で語学力をみこまれ

 

 なんか学歴証明書みたいなレター

 

を偽造だか翻訳だかしてみたり、締め切りに間に合わない翻訳家の友人に頼まれて平日の職務中に

 

 英訳するための元原稿

 

をネットの観光情報を参考に仕上げたりといったキャリアになるんだかならないんだかわからない事をしていました。図書券500円から一案件5万円までピンからキリでしたがただ働きはなかったと思うので一応職歴にしてもいいのかなと最近は思います。

 が、夕方になって明日の朝には翻訳した成果物を出せと無茶を言ってきたので、その無茶に見合った代金5000円を要求したら先のインド人店長にごねられたのだけは納得がいっていません

 

 自由な労働(略

 

 で、物を書いて生きるという選択肢もなくはなかったのですが、私はそんな気はさらさら無く向いてもいないサラリーマンなぞになりました。理由はもの凄く私には自明なのですが

 

 書くのが好きで子供の頃から勝手に物を書いていて

「小説家や職業ライターになりたい!」

 といった内発的な衝動が一切無かったし、学校の課題なども書こうとしても何も浮かばず剽窃盗作なんでもありという創作力の無さも思い知っていたからなのです。

 

 じゃあ今書いているのはなんだ

 今まで代価をもらって書いてきたのはなんだ

 

と言われると

 

 「もうできあがって降りてきたのだからキーボードを叩いて形にするだけだからむしろ楽しい。頭使わないし」

 

というのが実際でして、今まで書いて積極的に世間様の目に触れる所にお出ししたものは一発書きで構造も何もかも決まっていて「てにおは」などの整形ぐらいしか推敲という作業をした事がないのです。

 

 かなり先に挙げた専門学校の副教材として頼まれていた読書ガイドですが、普通の読書ガイドなぞ金を払ってでもごめんこうむる性質の私は

 

「自分が彼らの年齢だったら欲しかった知恵を読書のススメという形で面白く読ませてやろう」

 

図書券500円(トータルでだ!)にはとうてい見合わないクオリティと自分では思うものを毎回三から四時間かけて(字数は六千字ぐらい?原稿を載せていたHPが消失したので今となっては不明です)最初に閃いた構成をひたすら形にしていました。

 後にあれは一発書きだと伝えたら非常に微妙な反応が返ってきたのでこれもまたアブノーマルではあるようです。

 

 なんなのか自分でもわからないのですが、頭に閃くように降りてこないものはネタがいくらあっても書けないし書きたい気持ちにならないのです。

 そしてその悪癖は専門学校でのレポート課題という形で私を苦しめるのでした。特に東洋医学概論のレポートについては思い出したくもありません。当時の先生は自分の言葉で自分が納得した事を筋道立てて書くようにとおっしゃっていたのですが、これが私にはものすごく難しかったのです。

 

 「火には集散性と上昇性があります」

 

と言われて

 

 「はいそうですか」

 

以外に何も思い浮かばない自分が毎回授業の度にレジュメを書かなければならないこの苦しみや。レポートを出せば

 

 「自分の言葉で書きなさいね」

 

とバッサリ切り捨てられるこの苦痛。何も思わないのに自分の言葉になんかできませんよ先生!

 まあ、できの悪い生徒という話なのですが、一年半ばが過ぎるまで

 

「この先生が一生懸命語っている東洋医学や哲学はひょっとしたら精密に構築された妄想の体系なんじゃないか」

 

 と思うくらい飲み込みも吸収も表現も拙かったのです。

 

 逆に相性の良い課題というか、いいものが降ってくるテーマを出してくれる先生もおり、こちらは満点をいただいたのがちょっとだけ今でも自慢です。書き上げた時のテンションのままにラインで無理やり読まされたクラスメイトからも後日

 

「あれは凄いと思った」

 

と嬉しいポロリがありました。

 で、今回の本論はここまでです。後はくだんのレポートを全文貼り付けるだけなのでめんどくさい方は

 

精神疾患生活習慣病として捉え直す事の意義について」(前述のレポートの内容)

「作り笑いで免疫力は上がるのか~精神免疫学の見地から」(二回目の提出レポートです。こちらも満点)

 

と、評価する先生を困らせるような内容のレポートを書いて楽しんでいた、という所で読了なさっていただいても大丈夫なユニバーサルデザインを今回は採用しております。

 

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 公衆衛生学Ⅱレポート(テーマ:生活習慣病について)


生活習慣病として精神疾患を捉え直す事の意義について」

  生活習慣病の定義を「生活習慣が発症原因に深く関与していると考えられている疾患」とした場合、精神疾患生活習慣病の一つとして捉え直す事には充分な意味があると私は考えます。

 

 現在、生活習慣病のカテゴリの中に精神疾患を組み入れている例は殆ど見られま
せん。(日本生活習慣病予防協会 HP より)だが、生活習慣が精神状態のあり方を大きく左右する要素である事自体は広く知られています。江戸時代の日本ですが、収監した牢人の中であまりにも言動粗暴で扱いづらい者に対しては意図的に塩分を排除した「塩抜き」の食事を与え、そうされた囚人は気力が萎えおとなしくなったという故事が伝えられています。これは食生活が精神状態に継続的に影響する一例と言えるのではないでしょうか。
  

 また、精神疾患うつ病についてですが、「季節性感情障害(SAD:Seasonal Affective Disorde)」について取り上げてみたいと思います。

 主に、高緯度地域や山間部などで心因性の要因無しに冬季に発症する周期性の抑うつ状態として報告されていた症例です。原因は居住地域の「極度に少ない日射量とそれによる生体リズムの失調」によるものと現在では解明されています。

 治療法として、高照度の光源を用いて本来ならば日光で行われていた生体リズムの調整を代替する高照度光療法がファーストチョイスとして用いられます。これは、日射量の極度に不足した環境での生活が発症の原因という生活習慣病の典型例と言えます。
治療法の一つとして、低緯度地域への転地という生活環境の変更も選択肢として挙げられるのも生活習慣の変更が治療につながるという好例ではないでしょうか。

  生活習慣病の一つとして精神疾患を考える妥当性について季節性感情障害を例としましたが、生活習慣病という観点から精神疾患を考える事のメリットもあります。寛解はあっても治癒は無いと言われる精神疾患ですが、生活習慣に起因するものもあると認識して生まれる「生活習慣の改善」という積極的な対処法の存在は大きく患者や周囲を勇気づける事となるのではないでしょうか。

  これらの点を踏まえて、精神疾患生活習慣病という観点から捉え直す事には充分な妥当性があると私は考えます。(893 字)

 

参照文献
一般社団法人 日本生活習慣病予防協会公式サイト,
 http://www.seikatsusyukanbyo.com/,2019 年 10 月 24 日
惣滑谷和孝(2014),「生活習慣病メンタルヘルス」日本職業・災害医学会会誌 JJOMT,Vol.62,No.5,316-320.
寺尾 岳,大分大学医学部精神神経医学公開講座生活習慣病としての精神疾患
http://www.med.oita-u.ac.jp/psy/senmon1.html,2019 年 10 月 24 日
関 紳 一 , 恩賜財団済生会 季 節 性 感 情 障 害 ( S A D) ,
https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/seasonal_affective_disorder/,2019 年 10 月
24 日

ユーロトレーラーズ

 この頃、いきなり手や足が攣る事が増えた。芍薬甘草湯という漢方薬を飲めばすぐおさまるのだけれど、バイクに乗っている時にいきなり指が攣った時は死ぬかと思った。指が勝手にブレーキを握ろうとするので危険極まりない。

 

 というおっさんあるあるな話は置いといて、ふと思い出した学生時代の話。

 

 大学二回生の夏、予備校時代の友人とヨーロッパを二か月かけて鉄道で一周した。元々大学入学時から

 

「大学に入ったら海外に行こうぜ」

 

と話しており、友人は入学後野球場のライト磨きという結構レアなアルバイトをして旅費を稼いでいたのだが私は入学後にできた彼女とグダグダずるずるな環境で腐っており旅費が足りず実家に援助してもらうという腑抜けっぷりであった。

 予定は夏休みいっぱい、二か月間なので結構な額である。今思うと親には申し訳ないの一言しかない。

 

 二か月も旅行していれば移動だけでも馬鹿にならないと思うかもしれないが、ヨーロッパには加盟国なら新幹線以外は乗り放題になる

 

「ユーレイルパス」

 

という周遊券があり、確か四万円だか五万円だかで購入できる。その制度があったからこその旅行計画であった。

 ちなみに、この乗り放題制度の日本版もあり(ジャパンレールパス)同じく国内乗り放題なのだが残念なことに日本人は対象外である。

 

 この鉄道旅行、日本を出るまでがてんやわんやというか一苦労であった。

 

 私は大阪の大学、友人は東京の大学に進学しており東京発のアエロフロート格安便で起点のパリに向かう予定であり、まずは東京まで行かねばならない。貧乏旅行を約束付けられていた私には新幹線などという贅沢は許されず、18切符で片道11時間もかけて東京に向かう事となった。夜行列車を使うなどの機転も利かなかった私は日中の普通列車を乗り継ぐノープランぶりを発揮し、通勤ラッシュの中数時間立ち続けたりなどのいらぬ苦労をして東京までほうほうの体でたどり着いた。

 友人宅で一泊し、朝友人の友人に車で空港まで送って貰うプランまでは立っていたのだが私に負けず劣らず友人もノープランっぷりを発揮するのであった。

 

「ヨーロッパに行くんだから俺らも金髪じゃなきゃな!」

 

と謎理論を発揮し脱色剤を私の分まで用意していたにも関わらず、荷造りさえできていない有様。今の人が使っているかどうかは知らないが、パスポートやトラベラーズチェックなどの命綱を盗まれない為に身に着ける巾着袋の存在すら知らず私がその晩夜なべ仕事で縫い上げたのはまだ可愛い方。荷造り時に何か考え込んでいるので見てみると

 

「洗濯用洗剤のビッグボトル」

 

をどこに収めるか悩んでいた。長期の旅行なのでビッグボトルを買ってきたらしい。そんなものはペットボトルに入るだけ持って行って無くなったら現地で買えばいいと言うといたく感心され、こいつと一緒で大丈夫だろうかと私の胸中を穏やかならぬものにしたのであった。

 それでも仲良く一晩かけて徹底的にブリーチした私達は渋滞にはまってフライトに遅れかけたりしながらもなんとか日本を立った。日本を立つジェット機が離陸する瞬間というのは思ったよりも力任せの強引さを強く感じさせるもので、私は

 

「こんな事なら〇〇ちゃんを口説いておくべきだった!」

 

と咄嗟に思った。

 

 インターネットで情報収集や旅行の手配ができる前の時代であり、旅行の頼みの綱は英語で書かれたヨーロッパ全域の時刻表とそれぞれ購入しておいた

 

地球の歩き方

 

などのガイドブックだけ。後は訪れた街々の観光案内センターで貰える観光案内パンフレットだけである。時刻表なぞ国内のものすら読んだ事のない我々であったが、慣れというものは凄いもので

 

「ここで〇時の×行の列車に乗ってどこそこで降りて△時間待った後の◇行き列車に乗り換えれば夕方までには宿が確保できるな」

 

と数十分もかけずにプランが立てられるようになっていた。基本的には列車で目的地に移動し、宿を見つけてから観光なり食事なりして過ごしまた次の観光地に向かう事の繰り返しである。ダイヤによって夜行列車や寝台車、場合によっては追加料金を払って新幹線(国ごとに独自の名称はあるが、ここでは新幹線で統一している)と色々な列車を利用したが、鉄道マニアの成分など欠片ほどない私でも一番記憶に残っているのは列車の事ばかりだ。過ごした時間が一番長いのが列車での移動なので当然な話ではある。

 

 なので、この話では観光の話は一切出てこない。

 

 北フランスからスペインをめぐり、イタリアドイツにハンガリーで折り返して再度フランスに戻るという一部東ヨーロッパを含むものの(ベルリンの壁崩壊後なので東ヨーロッパにも行く事ができたのだ)ほぼ西ヨーロッパを一周したのだが、個人的に気に入ったのはスペインである。酒もたばこも税制上安い上に食事がおいしいと良い所ずくめであった。

 

 が、順調に旅を楽しんだとは言い切れない。何せ四六時中一緒に行動しているので相手にうんざりしてくる事は避けられず、主に寝るまでしゃべっりっぱなしの私に辟易した友人からの提案で、しばらく別ルートで旅行し再合流しようという事になった。

 

 私はたまたまイギリスに短期留学していた同期の女友達と更に留学中にできた友人の女性と合流してしばらく両手に花の状態でライン川下りやローマの遺跡巡りを楽しんでいたが、移動プランや宿の手配は私がやっていたのでガイド代わりに使われただけと言えなくもないのではないかという疑いに時折駆られていた。

 

 友人は夜行列車で荷物をチェーンロックで座席に固定するのをつい怠ったその時に荷物を一切合切盗まれてしまい、Tシャツに短パンという恰好で夏でも寒いスイスに放り出されてしまうという目にあっていた。ホテルにチェックインした時に(パスポートとトラベラーズチェックは私特製の巾着袋のおかげで無事だった)フロントの兄ちゃんに同情されて服を貰い、その後着たきりスズメだったという。

 

 まあ、当時のヨーロッパの夏というのは死者が出るほどの熱波もなく、乾燥しているので夜に服を手で洗濯して室内に干しておけば翌朝にはカラカラに乾く。荷物の中に占める服の割合はわずかなもので着たきりスズメなのは前からでもあった。

 

 そんなこんな色々なトラブルにも遭ったが、もっともっと色んな人と遭った。行く先々で人と遭い、話す。海水浴に行った先で出会った元フランス外人部隊ボスニア・ヘルツェゴヴィナにも行ったという日本人や、ハンガリーから帰る夜行列車があまりに寒く震えていたら一緒の毛布に入れてくれたドイツ人の美少女、パリで睡眠薬強盗に遭って途方に暮れている男性など

 

「キャラ立ち過ぎやろ」

 

という人たちと知り合っては色んな話をした。新しい街につけばそこで又何か新しいものを見たり新しく人と出会う。

 あれだけ毎日が新鮮で楽しかった経験は大学入学時の毎日友人が増えていった頃ぐらいしか比べられるものがない。

 

 旅の最後、再度パリに戻った私が最後に出会ったのは

 

 別行動を取っていた友人であった。待ち合わせていたのではなく、ポンピドゥーセンターを見に行った帰りに偶然出くわしたのである。先に述べたように服も含めて一切合切夜行列車で盗まれた友人は親切なフロントの兄ちゃんに貰った服を着ており、最初

 

「おい!おい!」

 

と呼び止められても誰だかわからず通り過ぎかける所だった。その後、事の顛末を聞いた私が笑い転げた事は言うまでもない。別行動を取られて当然である。

 

 この旅行ですっかりオープンマインドな習慣が身についたのか、夏休み明けの私は

 

つんく♂みたいな金髪になった」

「性格変わったねー」

 

 などと言われていたらしい。ちなみに盗まれた友人の荷物は旅行保険で補償された。

落ちて当たり前体操

 国試に5点足りずに落ちてしまった。

 落ちたと自己採点で分かってからは虚脱感に襲われて一日に20時間ぐらい寝ていてベッドから出なかったのだが、別に落ちたのが衝撃だったわけではない。

 「勝ちに不思議の勝ちなし」という。(負けだったかも)

自分でもこれで受かったら凄いよなと思っていた位だったので凹みもしなかった。

 

 何故そこまであきらめていたのかは3年生の1年間が酷かったからだ。では、どんな1年間だったのか。

 

 2年を無事に終えた私は張り切っていた。新しい仕事も見つかり順風満帆に思えた。が、単なる気の所為であった。

 

 4月から始めたのは清掃の仕事で、朝7時から5時間の午前中だけの短時間勤務である。午前中で終わるので午後を勉強に充てて夜学校に行けば充分勉強できると思って始めたのだ。

 

 甘く考えすぎていた。清掃の仕事がとんでもなくハードだったのだ。

 

 朝5時には起きて家を出る。そしてひたすら重い床用洗浄マシンを押し続ける。スマホの万歩計で計っていたが5時間で1万歩を優に超えていた。

 何とか仕事を終えたら、帰りに離れたバイクの駐車場まで歩くのが辛い。足も身体もガコガコになり息も絶え絶えになりながらたどり着く始末。

 

 家に帰ってきても勉強どころではない。最初の頃は昼前にベッドに倒れ込んで夜の10時ごろまでしんどくて起きられなかった事もあった。

 最初は毎日計画的に勉強しようと先生にスケジューリングを相談していたのがそれどころではなく、仕事をこなすだけで必死だった。仕事をしないわけにはいかないので辞める事もできない。

 

 国試対策どころか学校に行くだけで精一杯の日々。それも休みがちで定期試験を乗り切るだけでいっぱいいっぱいだった。

 

 更に夏、交通事故にあってしまって怪我をして余計仕事が辛くなった。シフトを減らしたくとも人手不足で叶わず益々私は疲弊していった。

 疲労のせいか熱が出る。幸い、コロナ禍の影響で発熱して休んだ場合は欠席扱いにならなかったので助かっていた。が、国試対策を踏まえた授業なども休みがちで周囲と比べるとどんどん置いていかれる。

 

 模試の成績は何故か真ん中ぐらいをキープしていたが、実力の裏打ちがない事は自分が1番分かっていた。

 

 無収入になるがもう限界だと仕事を辞めたのは10月半ば。もう勉強しているクラスメートとは何周差がついたか分らない。学校に行くのが辛くなってきた。

 体調も戻らず休んでばかりになっていた。勉強は手につかない。手を付けてない所が多すぎて机に向かうのも辛い。

 

 現実逃避してKindleで本ばかり読んでいた。これで成績が上がるわけがない。学校に行けず勉強もできない事に追い詰められて心療内科にも通い始めた。

 

 動けない。

 

模試の成績は合格ラインにもう数歩足りない。直前の追い込みもする気力が沸かず、もう落ちて当たり前という心境で国試に臨み当たり前のように落ちた。

 

 頑張って落ちたのならともかく頑張れずに落ちたのだから悲しくも悔しくもない。

 

 ただ虚脱感だけが残った。

 

 当たり前の事が出来なくて落ちたが、今年は普通に頑張れるようになりたい。

HD8でも使える

 私のタブレット使用歴は
初代   Amazon Kindle fire HD8
二代目  Amazon Kindle fire HD10
三代目  iPad 7th
 てなぐあいになっている。学習用にiPadを導入してからは教材管理からSNSまですませられる便利さからほぼiPadのみ持ち歩いている。
 HD10はいきなりアプリが落ちる挙動の悪さもあってyoutubeやAmazonprime再生専用機として枕元に安置されている。安置といったのは、こいつは傾けたりしてオートジャイロが働いた瞬間にアプリが落ちるという厨二病もなんのそのな繊細さのために持ち歩けないのだ。

 で、HD8であるが使い道がなくなったので気付いたら1年近く充電はしているが使ってない。最初のタブレットという事に興奮してブログで勉強しては使い方を工夫し、Androidのコマンドを勉強して中身も弄り回しまくったのが嘘みたいだ。

 試しに起動してみたら、アプリの切り替えどころかテキスト入力ウィンドウのオープンにさえ2秒はかかる。もう、まともに使うのは無理だ。
 そんな代物に腹を立ててゴミ箱に叩き込んだのだが、しばらくして

「完全初期化ってやった事ないしやってみるか」

と今までの歴史をゼロにしても惜しくないHD8を前に閃いた。

 さっそくファクトリーリセット。
 再構築はマシンに負担のかからない最小限のカスタマイズにすませる。すると、リセットする前の3倍位キビキビ動く。
 リセットする前はシロウトの私が怪しげなバッチをあてたり変なコマンド打ち込んだりで内部がぐちゃぐちゃだったのだろう。

 で、Kindleで読書してみたらサイズがとてもよみやすい。スマホだと小さくてストレスだったようだ。
 SNSも画面が大きい分キーボードパネルが大きくて打ちやすい。スマホだとすぐ誤タッチしてしまうのでストレスフリー!

 という理由で用途は限定されたが現役復帰したAmazon Kindle fire HD8。バージョンアップ版ぬのplusが欲しくなってきた。